この小説について
『くすんだ青の金曜日』は、女性物の服に惹かれた32歳の会社員・中野和也が、誰にも知られない部屋で少しずつ女装を始めていく全13話の小説です。
小説を気軽な入口にしながら、作中に登場する悩みに関連したガイド記事も読める形にしています。
この物語は前の話から続いています。初めて読む方は、第1話「合格点」からお読みください。
この作品はフィクションです。
はじめまして、管理人のマキです。
女装歴20年の経験も踏まえながら、身バレの不安に配慮した情報を初心者向けに分かりやすく整理しています。
本編
その週から、俺は何も試さない生活に戻した。
クローゼットの奥へしまった収納ケースには、触れなかった。
仕事へ行き、帰ってきて、夕飯を作り、風呂に入って寝る。
休日は掃除をしたり、買い物に出かけたりする。
以前と何も変わらない毎日だった。
最初の二、三週間は、それが素直に楽だった。
クローゼットの中を気にすることも、使った物を元の場所へ戻したか確認することもない。
夜、ソファに座ってテレビを見ているだけの時間が、以前より軽く感じられた。
何かを隠しているという意識も、日が経つにつれて薄くなっていった。
一か月ほど経った頃、休日にいつもの量販店へ寄った。
特に目当ての物があったわけではない。ただ、日用品を買うつもりだった。
エスカレーターを上がる途中、婦人服の売り場がある方向へ顔を向けないようにしている自分に気づいた。
そのまま前だけを見て、日用品売り場へ向かった。
振り返ることはしなかった。
さらに何週間か経った、ある平日の夜だった。
仕事帰り、駅前の道を歩いていると、前を歩く人がスモーキーブルーに近い色の服を着ていた。
意識したつもりはなかったが、目がその色を追っていた。
一瞬、歩調が遅くなる。
その人は人混みの中へ入り、すぐに見えなくなった。
それでも駅へ着くまで、頭の片隅に色が残っていた。
自分が持っているニットより明るかっただろうか。
もう少しグレーに近かったかもしれない。
考えたところで、何かが分かるわけではなかった。
それでも、しばらく頭から離れなかった。
二か月目に入った頃の、金曜日だった。
夕飯を終え、食器を洗い、ソファへ座る。
テレビをつけると、いつも見ている番組が流れていた。
特に何も変わらない、普段通りの夜だった。
しばらく画面を眺めてから、ふと時計を見た。
まだ夜は長かった。
以前なら、この時間にカーテンを閉め、玄関の鍵を確かめていた。
服を取り出し、鏡の前で何かを試していたこともある。
今は、ただテレビを見ている。
それ自体に不満があるわけではなかった。
面倒なことも、緊張することもない。
それでも、以前そこにあった時間だけが、生活から抜け落ちていた。
不幸だとは思わなかった。
困っているわけでもない。
ただ、何も入っていない場所が、確かに残っていた。
その空いた時間をどう扱えばいいのか、自分でもまだ分からなかった。
それからしばらくして、母から連絡が来た。
「今度の日曜、寄ってもいい? そろそろ暖かくなるから、冬物持って帰りたくて」
いつもと変わらない連絡だった。
俺は「いいよ」と返信した。
送信したあとも、しばらく画面を見ていた。
前に同じ連絡を受けたときとは、何かが少し違っていた。
それが何なのかは、まだ自分でも分からなかった。
スマートフォンの画面を閉じ、テーブルの上へ置いた。
さいごに
女装をしばらく休むと、準備や片付け、見つからないように気をつける負担から離れられることがあります。
和也も何も試さない生活へ戻り、最初は以前より気楽に過ごしていました。
それでも時間がたつにつれて、女装をしていた時間が生活から抜け落ちていることに気づきます。
休むことは、必ずしも女装をやめることではありません。少し距離を置いたことで、自分が何を負担に感じ、何を残したいと思っているのかが見えてくる場合もあります。
女装を続けるか、休むか、距離を置くか迷ったときの考え方については、こちらの記事で詳しくまとめています。
この小説を続けて読む
前の話 第10話「全部出してみる」
次の話 第12話「しまっておく」
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